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「流行通信」横尾忠則からの発信
1980~1981年までの1年間限定で、『流行通信』のアートディレクターを務めた、美術家の横尾忠則。1981年に商業デザインから身を引く、いわゆる「画家宣言」の直前まで手がけた13冊は、ライティングから作られたファッションストーリー、プロデュース的発想から生まれたアート連載、自身が撮影を手掛けた表紙など、どれもが冒険というべき、情報雑誌とは異なるものだった。最後の号は“さようなら”というメッセージを込めた、後ろ向きの人物の写真が表紙になっている。ときに挑発的で複雑な構成は、あらゆるスタイルを持たず、言語化することを捨てて身体の赴くままに描き続ける、横尾の絵画作品とも重なる。今回は『流行通信』と渋谷PARCOをテーマに新作のコラージュを作り上げた。約40年が経ち、改めて当時の『流行通信』を振り返ってもらった。
また、本号の発売と同時期に開幕し、12月3日まで東京国立博物館・表慶館で開催されている「横尾忠則 寒山百得」展では、約1年半で102点もの新作を描き上げた。これらの作品は、中国・唐の時代の詩人、寒山と拾得をモチーフに、短期間で一気に作り上げていった、その時々の感情と独自の解釈を交えながら再構築したシリーズ。自由奔放な画風とその創作性について話を聞くために、世田谷区・成城のアトリエを訪ねた。
1年間限定13冊の『流行通信』
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1980年から1981年にかけて、ちょうど絵画に移行する端境期に雑誌のアートディレクターを引き受けられたのはなぜでしょうか?
横尾:理由は頼まれたから。グラフィックデザイナーは依頼がないと仕事が成立しないですよね。僕は常に受け身でしたから“頼まれたから”というだけなんです。森英恵さんにお昼に誘われた時に、「『流行通信』が続くまでアートディレクターをしてほしい」と言われて、半永久的ではプレッシャーになるので、1年という期間を限定して引き受けたわけです。最後の号の発売直前にもう1ヵ月だけ続けてほしいと言われて、後ろ向きの人物が表紙の号を作ったんです。
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オファーがあったその時に、森英恵さんからこういうふうに作ってほしいというような要望はあったのでしょうか?
横尾:全くなかったですね。「横尾さんの思い通りのものを作ってください」と言われました。だから、遊びの場を与えられた感じですよね。でも、やり方がわからないから、毎号作りながら輪郭が見えてきた感覚です。自分のイメージもあるから、カメラマンは決めないといけない。大勢が参加して、その都度決めていくのも面倒だし、表紙から小さいサイズの広告写真まで、1冊を1人のカメラマンが撮影したら簡単なので、第1回目を十文字(美信)くんにお願いしたんです。個人写真集を作るつもりでやってほしいと注文しました。
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どのようにカメラマンを決めていったのでしょうか?
横尾:他の雑誌でやってることを真似しても、『流行通信』としての存在価値がないですから、なるべくファッションを撮ったことがないカメラマンや、彼等が、普段やっていないようなことをお願いしました。その時々の人選がうまくいけば成功すると思ってましたからね。カメラマンが初めてのものを撮影する時はまず、戸惑うんです。戸惑って悩みながら撮ることによって、カメラマンが初心にかえることができるし、そこから生まれるものは大抵新鮮なんですよ。職人的にファッション写真を撮っているカメラマンには、僕はあまり興味がなかったです。それよりも見たことがない写真を撮ってほしかった。
浅井慎平とか藤原慎也、荒木経惟とかに、直接電話して交渉しました。例えば、藤原新也にお願いしたときは、ちょうど「シルクロード」の作品を撮っていて、「ファッション写真には興味がない」と話すんです。彼は理論家だったので「シルクロードを出発して、青山のファッションショーの舞台を終着点にしたら?」と説得したらおもしろがってくれて実現したんです。 -
有田泰而さんが表紙を撮影された、編集ページが全部白黒で作られた号も印象に残っています。
横尾:これ、おもしろいでしょう。全員白黒の号は広告主から「色がついて、一目で広告とわかって目立ち過ぎる」という指摘があったそうなんです。いつもは広告を目立たせたいくせに、目立ち過ぎて嫌だということなんです。編集ページと広告ページを逆転させたんです。
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「流行通信」No.197
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「流行通信」No.207
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編集ページは横組みで、広告は縦組みというデザインもありました。
横尾:発想があっても、実践するかどうかなんですよね。僕はあまり説得したくないので「これでお願いします」で終わりだから。細かい事はあまり言いませんでした。デザインは湯村輝彦くんと、もう1人若いデザイナーで養父正一くんでした。最初のコンセプトは、僕が伝えて2人が汲み取ってくれていたんですが、考え方が一致していたので、イメージが違うものはほとんどなかったように思います。
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何かを繰り返していく中で様式やスタイルが作られていくように感じるのですが、毎号手がけられる中で、実験的な表現を続けられたのはなぜでしょうか?
横尾:実験意識はなかったですね。理論がないですからね。アバンギャルド精神はあまりなかったですね。変わったことをしたいっていうことだけだったのかもわかりません。森さんは「あれをやっちゃいけない、これをやっちゃいけない」とは一切、言いませんでした。僕を解き放つような存在だったということが大きいと思います。先見性というか、ある意味で革命ですよね。しかも、やればやるほど売れるんだから。
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クライアントワークの中でも『流行通信』は横尾さんにとってどんな印象でしたか?
横尾:今、そう言われて気が付いたけど、それまで僕には特定のクライアントがいなかったんですよ。企業の仕事もしましたけど、単発でポスターを作ったりする仕事でしたから、グラフィックデザインで、どうしても僕じゃなきゃいけないっていう仕事は『流行通信』が初めてかもしれません。それは森さんとの信頼関係がありましたからね。
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『流行通信』を手がけられたあと、「グラフィックの時代が終わる」という個人的な感覚が降りてきたとお聞きしました。
横尾:本当のことを言うと、1980年にニューヨークのMoMAでのピカソ展を見に行ったときに会場がものすごく混んでたんです。前に進めない渋滞状態ですよ。その状態が20分くらい続いたのかな。その時、僕の中で衝動的に「グラフィックをやめて次は美術をやれ」っていう概念のようなものがドーンときたんです。誰かが僕の後ろで叫んだのかと思うぐらいで、本当にびっくりしましたね。
そろそろグラフィックに飽きて、絵画をやりたいと思っていれば理解できますけど、そうではなかったですから。グラフィックは僕にとって天性の仕事でしたし、その頃は、海外の美術館から個展のオファーがいくつも来ていたんです。このままグラフィックデザインを続ければ、世界のトップランナーになれると思っていたし、グラフィックデザイナーとして幸福な瞬間に「グラフィックをやめて、絵画の道に行け」という波動というか、それが起こった。一種の洗脳のようです。 -
それは、ご自身の中から湧いてきたような感覚なんでしょうか?
横尾:僕のものじゃないですよ。だけど、僕の中を通らないと出てこない魔力的な力の意志が働いたように思いました。それが、神か悪魔か知らないけれど、すごい強い力を送ってきたんです。そうすると、その力に抵抗できなかった。僕の中からグラフィックの概念がスーッと消えていくのがわかったわけです。遠くへ行く感じです。そして、目の前に壁ができて、アートがどんどんやってくるんです。アートをやりたいとは思っていないのにですよ。それで、これは洗脳だなと感じたんです。僕の宿命のプログラムにはそのタイミングでグラフィックから絵画に転向させる計画が組み込まれていたような気がしました。こういうことが人生で実際に起こるんだと思いましたけど、これに似たような経験が過去にもあったんですよ。
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幼少期とかでしょうか?
横尾:高校生のときです。当時は将来、郵便屋になろうと思っていたんですよ。絵は描いていましたし、学生展や県内の展覧会に入選したりもしましたけど、そこまで嬉しくはなかった。高校を出たら郵政研究所に2年入って、郵便屋になるつもりで準備していたんです。そしたら、校長先生に「郵便屋にはなるな」と言われたんですよ。
絵が描けるから芸術家にしたかったんでしょう。学校のPRにもなりますから。その後、武蔵野美術大学出身の先生に進められて受験をすることになりました。でも、受験日の前日の夜中に起こされて、「明日の試験は受けるのをやめてくれ」と言われたんです。先生の言うことは絶対ですから「どうしてですか?」とも聞かずに、翌日受験しないで、実家に帰ってきたんです。そしたら両親はものすごく喜んだんですよ。老齢の上に無職だったので大学に行くような経済力は全くなかったから、受けなかったことを喜んだんです。「お祝いしよう」って赤飯まで炊いてくれて。漫画みたいですけど、本当の話です。 -
今だと、なかなか考えづらいですね。
横尾:今はみんな、きちんと反抗するでしょうね。でも、僕は帰ってきてしまった。そのことを担任に伝えたら、真っ青になって、先生の自宅の向かいにある印刷会社に電話をかけて、僕を就職させようとしたんです。頼んでもないんですけどね。
そして、履歴書を書いている真っ最中に、別の加古川市の印刷会社から速達で「スケッチマンとして採用したい」とスカウトされたんですよ。僕が描いた西脇市の織物祭りのポスターが新聞に掲載されたのを見たそうなんです。今度はそのハガキをまた、担任の先生に持っていったら、「そっちに行ったほうが良い」と。
受験をせずに帰ってきた翌日にすすめられた会社の履歴書を書いている真っ最中に、別の会社からスカウトが来るなんていう、奇跡みたいなことが重なったんです。漫画みたいで、話としてはでき過ぎていますよね。 -
横尾さんにとってグラフィックデザインの出発点だったのでしょうか?
横尾:もう少し先ですね。結局、就職してもスケッチマンがなんのことかわかりませんでしたし、僕が作った包装紙もどこからも注文が来なかったんです。そこで、印刷物をクライアントに配達する役に回されたんです。大きな自転車で怖かったですよ。そしたら、ある日、運搬中に大雨に降られて8万円分の印刷物をすべて水に濡らしてしまったんです。当時の僕の給料が7000円の時代ですよ。すぐに「明日から君の机はないから」って言われたんです。意味がわかりませんでしたので、翌日も会社に行ったら「君はクビだよ」と言われて。雨が理由なので不可抗力ですけど、社長が言ってるからしょうがない。こういう受け身のスタンスが東京デザインセンターに行くまで続いたんです。僕は子どもの頃から受け身で生きてきたんですよ。主体的に何か事を起こすっていうことが、苦手な性格になってしまったわけです。
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その後、グラフィックデザインでトップランナーとなり、「流行通信」も手がけられました。その後に「画家宣言」をされました。
横尾:美術は僕の人生です。グラフィックに関しては全て仕事だと思っています。ただ、グラフィックから画家に転向する狭間の頃はグラフィックは捨ててもいいと思っていたんじゃないかと思うんです。
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それが、1冊横組みのデザインだったり、ルールや作法から逸脱した表現に繋がったのでしょうか。
横尾:その解釈が正しいと思います。そこまで考えたことないですけど、話をしていて、そう思いますね
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今回は「流行通信」のロゴを使った作品について「ロゴを探すように見て欲しい」という言葉をいただきました。
横尾:作品の模様の中に「流行通信」のロゴがあるんですが、はっきりと読めないでしょう。雑誌として綴じられるのも良いけれど、大きなポスターにすると性格がはっきりするんじゃないかな。これは僕の美術、絵画とデザインが合体してるわけですから、グラフィックデザイナーのキャリアがなければできなかったことでしょうね。そういう意味では、記念すべき作品ですよ。
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©TADANORI YOKOO
寒山拾得のようにニタニタ笑いながら鑑賞すればいい
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現在、開催中の「寒山百得」展の作品は約1年半で102点を完成させたとお聞きして驚きました。
横尾:正確には1年2ヵ月ですね。半年くらいあいて1点だけ描いた作品があったので。
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それぞれの作品には日付が書かれていて、間隔が2、3日だったり、同じ日付の作品もありましたので一気に描かれたのがわかりました。
横尾:そうそう。1回だけ同じ日に3点描いたんです。というのも制作期間中に急性心筋梗塞になってしまって、2週間ほど医者に筆を持っちゃダメって言われて、何もできなかったんですよ。それで、絵を描けない禁断症状を起こしてたので、午前と午後、夕方までに3点描けちゃったんです。ちょっと無理しすぎたかなっていう心配はありましたけど、その後、また元のペースに戻ったから、大丈夫でしたね。本当にアスリートの気分でした。アーティストじゃなくてアスリート。次はアスリート宣言でもしようかな。
横尾忠則 《寒山百得 2022-12-01》 2022年
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スタイルを持たずに自由に絵を描くことは横尾さんの真骨頂であるとも思います。
横尾:それは僕の性格です。子どもの頃から何かに夢中になるけど、すぐに飽きちゃう。その性格で現在まできたんです。それでいうと、寒山拾得は中国、唐の時代の風狂の禅僧といわれるくらいはみ出した存在の究極の自由人。僕が絵を描くときに寒山拾得の力を借りて、何をやってもいいと思ったわけです。あとはアスリートになればいい。アスリートは瞬間芸術でもあるでしょう。例えば、バッターが球を打つ瞬間は頭は空っぽだと思うんです。考えてると打てない。どのスポーツでも、究極の瞬間はみんな空っぽになっていると思うわけです。
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展示の締めくくりの作品が「RAMBOO」でした。アルチュール・ランボーとエドガー・アラン・ポー、マーロン・ブランドの「乱暴者」だったのが印象的でした。
横尾:ダジャレですよね。最後の人達も寒山拾得かもしれない。僕にとっては問題提起ですから、鑑賞者がそれぞれ感じ取ってくれたら良いです。その答えはバラバラでいいんですよね。今はコンセプチュアルでないと現代美術の最先端に立てないでしょう。僕は頭の中を空っぽにして、阿呆になりなさいって言ってるわけだから、およそ水と油です。だけど、その間にいるのは鑑賞者で、どちらを選択するのかはその人の自由ですよね。ところが僕の絵は頭で見ようとしても見られない。そこで初めて空っぽになるわけだから。そういう意味では2通りあっていいんじゃないかな。
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横尾さんの中にも、寒山拾得が存在すると思いますか?
横尾:そう思いますね。でも、誰しも自由を希求してるわけですから、自分の中に小さな寒山拾得がたくさんいると思うんです。それを1人ずつ自分の中から取り出して自分のステージに乗せればいい。寒山拾得はそれを全て実践しました。だから、僕は絵を描くことによって実践したわけです。固定観念を開放してくれればいいですね。それが、芸術の持つ力だと思うんですよね。気分が良くなってニタニタ笑いながら寒山拾得みたいに観てもらえればいいんじゃないかな。
- 横尾忠則
- 1936年兵庫県生まれ。1960年代からグラフィックデザイナーとして活躍し、1972年ニューヨーク近代美術館で個展を開催。その後もパリ、ヴェネツィア、サンパウロなど各国のビエンナーレに出品する。1981年に「画家宣言」で画家に転向。以降は美術家としてさまざまな作品制作に携わる。2012年には約3000点もの作品を収蔵する横尾忠則現代美術館(神戸市)が開館した。2021年7月に東京都現代美術館で「GENKYO 横尾忠則 原郷から幻境へ、そして現況は?」を開催。2023年日本芸術院会員、文化功労者に選出される。現在、12月3日まで東京国立博物館 表慶館で「横尾忠則 寒山百得」展を開催している。
- 「横尾忠則 寒山百得」展
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- 会期:
- 12月3日まで
- 会場:
- 東京国立博物館 表慶館
- 住所:
- 東京都台東区上野公園13-9
- 時間:
- 9:30〜17:00
- Photography(Portrait)
- Mayumi Hosokura
- Photography(Work)
- Niina Nakajima
- Interview & Text
- Jun Ashizawa(Ryuko Tsushin)