“日本一、販売員を取材している”ライター苫米地香織が、ファッション&ビューティ業界で働く“仲間たち”に向けて、「明日のために読んでおくべし!」な1冊を紹介する連載。第2回は、経済誌記者・梅咲恵司の「百貨店・デパート興亡史」(イースト・プレス)だ。
百貨店を解剖する“賢者の1冊”
「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」——ドイツ帝国の初代宰相を務めたオットー・フォン・ビスマルク(Otto von Bismarck)の言葉だ。
愚者は自らが失敗して初めて学ぶことができるが、賢者は先人が経験したこと、つまり歴史から知れると示している。
その点で「百貨店・デパート興亡史」は、“賢者の1冊”と言える。百貨店が呉服店と呼ばれていた江戸時代から現代までどう移り変わり、客から何を求められ、どんなサービスをしてきたのかを“商い”“流行創出”“サービス”の3つの切り口でひもとく。
日本橋が“百貨店の街”な理由
百貨店の起源はどこか?と問われた場合、すぐに思いつくのは日本橋だろう。では、いかにして日本橋は百貨店の街になったのか?
一つは、日本橋川にかかる“日本橋”が徳川幕府の定めた五街道の起点となったことだ。全国から人や物が集まり、商いの街として発展した。本書では、さらにビジネス視点で日本橋が百貨店の起源となった理由を教えてくれる。ずばり大手デベロッパー、三井不動産のお膝元だからだ。三越の前身、三井呉服店は約400年前に日本橋に店を構え、120年前に三越呉服店となり、現在に至る。
「百貨店・デパート興亡史」はこうした史実に基づき、当時の呉服店がどんな存在だったのかも伝える。現代に通じるさまざまな商習慣や、今なお使われる業界用語も登場し、あらためて歴史はつながっていると感じる。
昨今は流行が多様化して「ビッグトレンドが生まれにくい」ともいわれるが、かつては百貨店が流行をつくり、けん引していた。また百貨店は、文化やライフスタイルも発信してきた。三越日本橋本店にあり、数年後に開場100年を迎える「三越劇場」などが象徴的存在だ。百貨店が人々にどんな影響を与えてきたのかを知ると、これから実店舗のやるべきことが見えてくるかもしれない。
百貨店は女性の社会進出も後押しした
個人的に興味深く読んだのは、“サービス”を切り口にした章だ。約20年間、販売員を取材してきた者として、時代ごとの接客や働き方、モノを売るための工夫を知ることができ、販売員のあり方について、いっそう考えを深めることができた。
呉服店時代は“丁稚(でっち)”と呼ばれる奉公人たちが客の相手をしていた。丁稚は13~14歳の男性で、店のあらゆる部門に配置され、雑用をこなしていた。5〜10年かけて昇進する者もあったが、ほんのひと握りだった。
明治・大正時代になり呉服店が百貨店に進化するのと共に、女性販売員が登場する。初めは女性の雇用に対してどう対応すればいいか迷いがあったそうだが、10年ほどで女性販売員は百貨店に欠かせない存在となり、やがて誰もがうらやむ花形職業になった。店頭における女性販売員の丁寧な接客・応対が評価され、仕事をしながら行儀・作法が身につくと花嫁修業先としても認知されるように。百貨店で働く女性を、自分の息子と結婚させようとする母親もいたとか。大正から昭和初期にかけては女性の社会進出がさらに進み、働く女性は“職業婦人”と呼ばれるようになり、女性販売員が増えていった。
百貨店よ、賢者たれ!
かつて百貨店は全国から“良い品”を集めて、客にそれを紹介し、買ってもらっていた。良い品がどう作られ、どう扱い、どう愛でるべきかも教えていた。時代の流れと共にその関係が崩れ、“販売員に声をかけられたくない”という客が増えた。同時にインターネットの普及により、誰でも(ある程度の)商品情報やファッション知識を得られるようになった。販売員を介さずにモノを買うことが当たり前になった。
しかし、モノ作りに込められたストーリーの伝達や、服を長く大事に着るためのさまざまな啓蒙は、販売員が担う仕事なはず、と本書を読んで強く感じた。
百貨店は窮地に立たされている。しかし、ここで歴史に学び、賢者となってほしい。