ロート製薬は3年前に香りのオープンイノベーションラボ「べレアラボ(BELAIR LAB)」を開設し、以来香りの新たな可能性の探求と研究を行っている。これまで感覚で捉えられてきた香りを感性デザインで科学的に検証し、そのメカニズムを商品開発や生産性向上に活用している。ドラッグストアの「トモズ」と香りの店舗デザインを共同開発したり、2022年シーズンから日本プロサッカーリーグ(J3)に加盟する「いわきFC」の選手と香りがもたらすパフォーマンスへの影響を研究したり、香りのコンサルティングや空間デザインを手掛けたりするなど、幅広くサービスを提供している。さらにBtoC向けには調香師のクリストフ・ロダミエル(Christophe Laudamiel)氏と共にフレグランスアイテムを展開。現在ECサイトを始め、丸井などが出資する体験型店舗「ベータ(B8TA)」でも取り扱われている。医薬品や化粧品を中心に商品開発をする製薬会社のロート製薬が、なぜ香りのビジネスに踏み切ったのかーー。その意図や狙いについて星亜香里ベレアラボ代表に聞いた。
WWD:べレアラボを立ち上げた理由は。
星亜香里ベレアラボ代表(以下、星):べレアラボは、2年前に始めた新規事業。ロート製薬の前はソニー(SONY)でカメラや解析機器などを作っていて、センシング技術に携わっていた。だがセンシングでいろいろ測っても、そのデータを何かに使う提案ができなかった。ある日調香師のクリストフのワークショップを受講し、ずっと前から興味を持っていた香りで何か新しいことができないかと思うようになった。香りの研究は未開拓な領域が多く、隠れた可能性が多くあると感じていた。ロート製薬は社会とのつながりを重視しており、香りで社会に役立つソリューションを提供できたら面白いのではないか。いわゆる自分の魅力を高めるための自己主張としての香りというよりは、コミュニケーションに使ったり、世の中が求めている癒しを与えたり、メンタルケアとして用いたりすることを考えた。
ロート製薬も、これからは「心の充足の時代」と捉え、自分たちの会社の運営として「心の豊かさ」を重視したい思いがあった。人のQOLは五感で保たれているため、そこを重要視していきたいという指針があり、そこで新規事業として立ち上げることになった。
WWD:嗅覚の研究が遅れているのは日本だけの話?
星:いや、世界で遅れている。メカニズム自体がすごく難しくて。香りは分子の集合体で、匂いを感じることは化学反応。鼻がどのように匂いを嗅ぎ分けるかの仕組み自体が分かったのが、実は最近のこと。われわれは単品の香料や分子だけでなく、調香された香りを実際のフィールドでどう生かされるかを研究しており、それが業界でも珍しいと捉えている。たとえば弊社が開発したシトラスの香り「チアリング ベルガモット」をサッカー選手に使ってもらったら睡眠の質が上がったというフィードバックをいただいたが、こういったデータを商品やサービスに活用している。
サッカー選手と協業して
香りとパフォーマンスの関係性を研究
WWD:サッカー選手に着目したの理由は?
星:「いわきFC」という福島県いわき市のチームと協業した。「いわきFC」は日本サッカー界で最も科学的なクラブとして有名なプロチーム。遺伝子を分析し、遺伝子タイプに応じて、練習をオーダーメイドする手法を取り入れるなどフィジカルトレーニングを非常に科学的に行っている。ただ話を聞くと、メンタルケアはやれていないことが分かった。しかし若くてスキルがまだ発展途上の人ほど、メンタルケアは大事。プロ選手の日々のメンタルコンディショニングに香りを活用することができれば、一般の生活者への応用も広がる。科学的なアプローチに貪欲なチームだからこそできる研究だ。
ほかにもeスポーツ界でも研究をしている。特にeスポーツは夜中まで試合をするので睡眠をコントロールできないという悩みをよく聞く。そこで被験者2人(男性と女性)に24時間・14日間、心拍モニターを装着してもらい、体のコンディションをモニタリングした。その結果、われわれが開発した「グリーン」という香りを提供したら、デジタル疲労の回復に有効だということが分かった。女性は寝るときの副交感神経の活性度が上がり、緊張しない状態で寝ることができた。一方の男性はゲームの勝率が上がり、パフォーマンス向上につながった。
これらの研究により、香りはパフォーマンスやコンディションにさまざまな影響を与える可能性があることを実証できた。
WWD:ほかにもtoB向けのサービスで「トモズ」と協業した。
星:トモズは現在、店舗空間に香りを導入している。「トモズ」のブランドコンセプトをまず言語化してもらって、それを一つ一つ香りに変換した。さらにVRゴーグルを装着してもらい、店頭の映像を見ながらいくつかサンプルの香りを嗅いで、「明るい」「元気な」「清潔」というように、それぞれの印象を直感的に出してもらった。最終的に香りをマッピングをし、「トモズ」のコンセプトに合わせた香りを作った。香りで心地よい空間を作っていたが、それがお客さまや従業員に好評を得て、ハンドクリームも作ることになった。
WWD:香りがブランディングの手法としても今後活発化しそう。
星:匂いは、メッセージを届けられるもの。オレンジの匂いを嗅いだら「明るい」や「フレッシュ」など、共通してみんなが思う。だから嗅いだ人にフレッシュで明るい気持ちを与えたいなど、人の感性に働きかけることができる。感情のコミュニケーション、感情のマーケティングというのが香りでできる。目に見えないものの難しさはあるけれど、面白さもある。
WWD:「目に見えない」話をすると、表参道で行ったポップアップショップ・アートイベントで香りの言語化や視覚化に挑戦した。
星:香りは目で見えないからこそ、言語化や視覚化はとても重要。ただ多面的である上に、視覚情報などいろんなものに左右されやすいために、言語化がとても難しいものでもある。同じ香りでも「明るい」「元気」「輝き」と説明する言葉を変えるだけで感じ方が変わってしまう。でもそれはそれで面白い。われわれのフレグランスはラベルを全てグレーに統一しているが、それは色を使うと香りのイメージを決めつけてしまうから。人によっていろんな受け取り方があるという自由度が香りの魅力。解釈の余白がないと、面白くない。
WWD:効果と結びつけた香りといえば昔からアロマセラピーがある。
星:われわれが狙っているのはアロマセラピーのファンクショナル(機能的)な部分と、調香師が描く芸術的な世界を掛け合わせた新しい香りの形。今後両方をうまく掛け合わせた香りの可能性が広がるだろう。
WWD:日本の香水市場は小さいとよくいわれるが、だからこそチャンスを見出しているのか。
星:私も香りのビジネスに参入するとき、「日本は香水砂漠」といったことをたくさん言われた。業界にいる人ほど、口をそろえて言っていた。しかし、業界の外の人はそんなことを知らなくて、もっとほかの可能性があると思っている。
日本で香りというと、いわゆる嗜好品の香水といったものか、アロマしかない。しかも香水のほとんどは海外製のものが日本に入ってきているだけ。だから市場が狭いように感じてしまう。実際、今まで香水が苦手という人ほど、べレアラボに興味を持ってくれている。だから日本人は本来、香りは嫌いではないはず。
「香りは一番、人間が人間たる感情やメンタル、
精神などに一番アプローチできるもの」
WWD:ロート製薬は目薬や胃腸薬、リップクリームなど、悩みに応えるソリューション型の商品が多い。それらはフィジカルな悩みだが、今後は香りを用いてメンタルな領域に足を踏み入れるのは面白い。
星:それをネガティブにやりたくない。メンタルというと、「暗い気持ちを解決します」といった考えをしがち。そうなると自分が暗い気持ちにあることを認めなければならないし、押し付けることになる。だからそこは、ロート製薬の製薬会社としてのスタイルとは離した。香り自体がとてもポジティブなものなので、ポジティブなアプローチにこだわった。
WWD:製薬会社が作る香りの強みは。
星:製薬会社の中でもロート製薬は薬を作っているが、本来は薬が要らないのがベスト、との考えを持っているほど。ただどうしても人間は不調になることもあるので、そこを薬で補うことは必要と考えるが、健康を支える方法はほかにもいろいろな方法があるはず。香りは一番、人間が人間たる感情やメンタル、精神などに一番アプローチできる。体だけでなく、心もイキイキとしている状態、ウエルビーイングに近づく一つであると考えている。
香りは医薬品ではないので効果効能はいえないものの、きちんと研究に基づいて効能を実証した香りを作っているところが、製薬会社として香りを取り組むべきポイントなのではないか。われわれはコミュニケーションにも香りを使ってほしいと思っている。今後は家族や会社などより円滑な人間関係に香りを使って、優しい社会を作りたい。優しい社会があれば、おのずとみんなのメンタル面も良くなっていくと思う。香りがいろんなものを解決できるようになりたい。