エディ・スリマンから重責を継いだアンソニー・ヴァカレロ
2016年9月に発表されたヴァカレロによる「サンローラン」のデビューコレクションは良くない意味で記憶に残っています。ショー会場は、親会社であるケリング(KERING)の本社用に改装中の敷地で、「ブランドも刷新過程」を意味する構造がむき出しの建物で見たルックの印象は正直、可もなく不可もなく。シャープなテーラリングを得意とするヴァカレロと「サンローラン」の相性が良いのはわかるけど、それは前任者エディ・スリマン(Hedi Slimane)も同じ。創業者と前任者の存在感と比べると、34歳のベルギー出身のデザイナーの仕事は無難であり、ファッション界の宝を引き継ぐのは重荷であるように見えたのです。
印象が大きく変わり始めたのは、発表場所を他都市からパリに戻した2022年春夏シーズンあたりからでしょう。2023-24年秋冬メンズ・コレクションを取材した大塚記者は、レポートで「正々堂々とヨーロッパ流のエレガンスに焦点を絞ったことが奏功」と残しています。創業者のサンローランがもしメンズを手がけていたならこうだったのかもしれない。そう思わされる、性差を超えた「サンローラン」の美学がそこにありました。
サンローランの“分身”ベティ・カトルー
なぜ、ヴァカレロはステージを一つ上げ、後継者としてポジションを築くことができたのか?その理由を伝える一枚の写真はリンク先の記事にあります。2024年春夏コレクションのフロントローに座る、主にフランスの映画監督や俳優たちです。その存在感たるや!中でもカギを握るのは、左から2番目のベティ・カトルー(Betty Catroux)です。
1945年生まれのカトルーは22歳のとき、パリのナイトクラブで故イヴ・サンローランと出会います。以降、サンローランは彼女を自らの“分身の女性“と呼び、ミューズとして親密な関係を築いてきました。それから50年の時が経ち、ヴァカレロがカトルーと初めて会ったのは17年にモロッコ・マラケシュにできたイヴ・サンローラン美術館のオープニングでのことだそうです。そのときのことについてヴァカレロはインタビューで、「気楽でとても自然だった。親密なディナーを楽しみ、最後には二人とも本当に素でいられたと思う」と話しています。
ヴァカレロは「サンローラン」について語るときにたびたび、“アティチュード”という言葉を使います。「態度」や「姿勢」を意味するその言葉はつかみ所がなく理解が難しいけれど、そんな目には見えない「サンローラン」の“アティチュード”についてヴァカレロは、現代に生きるカトルーの素を通じて理解を深めたようです。フロントローでの「サンローラン」の着こなし方、座り方、笑い方、皺が刻まれた指に光る極細いリングなど78歳のカトルーのスタイルを見ると彼女がこの世に生きて態度を見せている、そのことがどれほどの価値か、わかります。
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