従業員約40人を抱える中堅OEM・ODMケイズプランニング(K'S PLANNING、東京都)を経営する北畑秀樹社長は、1988年に繊維商社のイトマン(現在は消滅)に入社以来、アパレルOEM・ODMビジネスに35年以上どっぷり漬かり、その酸いも甘いも経験してきたベテランだ。アパレル業界の趨勢とともにOEM・ODMビジネスはどう変化し、北畑社長はいかに経営をかじ取りしてきたのか?(この記事は「WWDJAPAN」2024年12月2日号からの抜粋です)
PROFILE: 北畑秀樹/ケイズプランニング社長
WWD:これまでのキャリアを振り返ると。
北畑秀樹ケイズプランニング社長(以下、北畑):1988年に繊維商社のイトマンの繊維部門に入社したが、93年に「伊藤萬事件」で経営破綻。会社は住金物産(現MNインターファッション)に吸収されて、僕も移籍した。環境は変わったが、僕は一貫して繊維畑で、OEMビジネスにどっぷり漬かった。
その頃(90年代前半)がまさしく「ザ・OEMビジネス」の全盛期だったと言えると思う。ちょうどアパレルの中国生産がいよいよ盛り上がり始めた時期だ。ただしその頃は、まだ本土ではなく香港がメインだったが。当時のOEMは、営業の僕、スケジュールや品質などを見る生産管理、輸出入などを担当する営業事務の3人1組で動いていた。デザイナーはいなかった。アパレルメーカーから受けた仕様書をそっくり再現して、それをコストにはまるように作ることだけを考える。これが僕らのミッションだった。
WWD:OEMの“全盛期”ならではのエピソードはあるか。
北畑:営業の僕の大仕事は、アパレルメーカーの発注責任者と同伴し、香港に出張することだった。出張前にはあらかじめ現地の工場にサンプルの依頼をかけておき、先方の希望にハマりそうな見本はしっかりそろえておく。メーカーの発注責任者は現地でそれを見て回りながら、(発注を)つける、つけないを矢継ぎ早に決めていく。「これは5000枚、これは1万枚」といったふうにね。今では考えられないロット数(製造の単位)で発注がついて、ダイナミックにお金が動いた。最盛期には、1年に12回くらい香港に行ったかな。
WWD:潮目が変わったのは?
北畑:このビジネスの仕方で通用していたのは90年代まで。バブル崩壊もそうだが、僕らを取り巻く環境をガラッと変えたのは、ワールドだった。「オゾック(OZOC)」(21年に終了)を手始めに自社で製造から販売まで一貫するビジネスを成功させると、他のメーカーも「これはもうかるぞ」と後に続いた。業界のトレンドが、卸売から直営店ビジネスに変わっていった。メーカーは店舗運営にお金を割くために、社内で商品のデザイナーを抱えきれなくなった。
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