「シャネル(CHANEL)」といえば、そのアイコニックなツイードのスーツや香水の「ナンバー5(No. 5)」、モダンでエレガントな“リトルブラックドレス”などが思い浮かぶが、いずれも創業デザイナーのガブリエル・シャネル(Gabrielle Chanel)が愛して定番となった品々だ。1883年8月19日にフランス西部の小さな町で生まれ、やがてココ・シャネル(Coco Chanel)としてモード界に君臨した彼女の生誕を記念し、“あなたが知らないココ・シャネルの真実9選”をお送りする。
1. ウェストミンスター公爵からの
プロポーズを拒絶
シャネルは英国の第2代ウェストミンスター公爵ヒュー・グローブナー(Hugh Grosvenor)と10年ほど交際していたが、公爵から結婚を申し込まれるとあっさり断ったという。シャネルが後に語ったところによれば、その理由は「公爵夫人はたくさんいるけれど、ココ・シャネルは私一人しかいないから」。
2. ほかのデザイナーにも
容赦なく噛みつく
シャネルは多くのデザイナーに影響を与えたが、それは自身もよく分かっていたようだ。イヴ・サンローラン(Yves Saint Laurent)に対しても、「彼は素晴らしいセンスの持ち主ね。私をコピーすればするほど、どんどんセンスがよくなっていっているわ」ときつい皮肉を投げかけた。
「バレンシアガ(BALENCIAGA)」の創業デザイナーであるクリストバル・バレンシアガ(Cristobal Balenciaga)とは仲がよかったが、後年に「彼はデザイナーを続けるには年を取りすぎた」とコメントしたことから仲違いしてしまったという。しかし、シャネルが死去した際の追悼記事でバレンシアガは、「(シャネルが亡くなって)とても悲しいし、私も本当に年を取ってしまったのだと感じる。強い影響力を持った類まれな存在が消えてしまった」と語り、その死を悼んだ。
3. 帽子デザイナーとして
キャリアをスタート
シャネルのデザイナーとしてのキャリアは、1912年にフランスの海沿いにあるリゾート地、ドーヴィルに帽子の店を開いたところからスタートしている。そこでシャネルはトレンドセッターとなり、やがてアパレルへと手を広げていった。
4. 王室のリクエストを拒否
シャネルはタダ働きを嫌がり、王室のためにデザインすることを拒否した。いわく、「全く、王女や公爵夫人たちときたら絶対にお金を払わないんだから。なぜ私が無償で何かあげないといけないの?私には、誰も何もくれなかったわ」。
5. 女性はメイクすべし
女性が素顔でいることを、シャネルは好ましく思わなかった。彼女はアトリエに毎日出勤していたが、そろそろ到着するという知らせが入ると、モデルたちは慌ててメイクをしたという。シャネル自身も、「ベッドで隣に寝ている男性の気持ちを考えなさい。誰も起きてすぐに青白い顔の女性など見たくないでしょう?」とベッドサイドに頬紅を常備していた。
6. 歯に衣着せぬ物言いが注目の的
相手が誰であれ、シャネルは思ったことをズバズバと遠慮なく言った。フランスの女優、ブリジット・バルドー(Brigitte Bardot)を「金の亡者」だと評し、その豊満なバストについては「大きすぎる」とこき下ろした。ファッションエディターにも容赦はなく、「猿みたいな顔をしているし、口が悪すぎる」「これほど偉ぶった女性には会ったことがない」など、今日では物議を醸すような物言いで周囲を驚かせた。
7. ミニスカートは嫌い
シャネルはミニスカートを「肉体を見せびらかすもの」だと言い、下品な服装だと酷評した。実用的なパンツルックを好み、女性もはくべきだと提唱して自らも着用していたが、そのことで第2次世界大戦中に成立した仏ヴィシー政権によって逮捕されている。
8. カメリアが大好き
シャネルが一番好きな花だったカメリアは、「シャネル」のシンボル的な存在としてアパレルやアクセサリーによく使われている。92年に米「WWD」がアトリエを訪れた際も、オートクチュールのショーのため、カメリアを使用したさまざまなデザインのピンが作られていたという。
9. 最後もお気に入りの
シャネルスーツで
シャネル自身の希望により、最後はお気に入りのシャネルスーツをまとった姿で埋葬された。それはベージュと白のツイードで、アイコニックな金ボタンとブレードの縁取りが施されたものだった。