島田千代子=前エル・エル・ビーン・インターナショナル ダイレクトチャネル事業部シニアマネジャー:1957年、静岡県生まれ。1983年にワーキングホリデービザでオーストラリアに滞在。84年、セントラルファッション国際部デスクマネジャーとして所属モデルのマネジメントを担当し、86年に夫とロンドンに移住。87年に帰国し、ダイレクト・マーケティングのシステム構築およびコンサルティング、コールセンターなどのオペレーションサービスを提供するサービスプロバイダー企業で営業部シニアマネジャーを務め、95年にL.L.ビーンに入社。国際部カスタマーサービスマネジャーとして、日本市場におけるコールセンター業務委託会社の管理及びLLB独自のカスタマーサービス哲学の日本市場における確立、管理・監督。コールセンター管理者へのブランド教育およびオペレーショントレーニングを確立した。99年、国際部日本担当マネジャー、2001年からダイレクトチャネル事業部シニアマネジャーを務め、18年3月末で定年退社 PHOTO BY YUKIE MIYAZAKI
前職を含めて、カスタマーサービス歴30年。島田千代子=前エル・エル・ビーン・インターナショナル ダイレクトチャネル事業部シニアマネジャー(以下、島田)は、「エル・エル・ビーン(L.L.BEAN) 」の日本における現地採用者第1号として、日本法人立ち上げとブランディングに携わってきた。コールセンターを含むカタログEC通販事業を22年統括して、3月末で同社を定年退社した。退社を間近に控えていた彼女に、仕事の醍醐味について聞いた。
WWD:そもそも「エル・エル・ビーン」に入ったきっかけを教えてください。
島田:もともとダイレクト・マーケティングのサービスプロバイダーに勤めていて、そのクライアントの1社が「エル・エル・ビーン」でした。ちょうど日本に進出し始めたタイミングで、カタログ請求を受けて、オーダーをデータ入力するといった試験運営を2年ほどしていて、私はその管理者として携わっていました。サービスプロバイダーとしての関わりだったのですが、オペレーターを教育しなければならないので、アメリカの本社でトレーニングを受けたりしていました。ところが、「エル・エル・ビーン」が本格的にコールセンターを立ち上げる際に、勤めていた会社がコンペに負け、さらにその会社がクローズすることになってしまいました。一方、「エル・エル・ビーン」は日本における監督者が必要ということで、本国に採用されました。ラッキーでしたね。
WWD:「エル・エル・ビーン」は好きだったのですか?
島田:本社に行って、商品のバックグラウンドも分かりましたし、とてもいい会社だったので、すごく感銘を受けました。ほとんどカタログ通販のビジネスで、カスタマーサービスもトップクラスだったので、非常に勉強にもなりました。年2回2〜3週間ほど本社に行き、そこで同僚や上司と話したり、アクティビティーを通して「エル・エル・ビーン」イズムにどっぷり浸かりました。1912年に創業した老舗企業ですが、創業者の哲学をずっと引き継いでいますね。
WWD:例えばどんな哲学ですか?
島田:「良い商品を適正な利潤で販売し、お客さまと人間らしく接すれば、必ずお客さまは私たちの所へ戻ってくる」という考えです。そもそも「エル・エル・ビーン」は通販がメーンのブランドですが、カスタマーサービスをフロントラインと呼んでいます。お客さまはもちろん大切なのですが、そのお客さまと接するセンターのスタッフも大事にしていかないといけないという考えが本部にあり、逆ピラミッドの組織でないといけないと教わりました。
WWD:それが実践されていましたか?
島田:はい。コールセンターにアルバイトのオペレーターがいるのですが、彼らがものすごくプロフェッショナルなんです。電話のプロで商品知識もあり、全然媚びてないというか、プライドを持って働いているんですよ。上司との関係も対等で、管理者も彼らのプロフェッショナリズムを尊重していて、いい会社だと思いました。いい職場でないといい接客はできないという考え方が根底にありましたね。
WWD:100年以上続く企業で、創業者哲学が受け継がれているのは素晴らしいですね。そのカルチャーは今も変わっていないですか?
島田:危うくなるときもありましたが、今も一族が株主で、基本的にお客さま、従業員、株主、取引先、地域社会、自然環境という6つの視点でバランスを考えて、納得できるところに落とし込んでいくという感じですね。フロント優先というのは変わらずで、今もボーナスが出るときはアルバイトにまで出ますし、ホリデーシーズンのプラスギフトも、業績が悪いとフロントにしか出ません。お客さまとのやりとりによって売り上げが立つので、削られるのはバックオフィスからになります。
創業者の孫であるレオン・ゴーマン=エル・エル・ビーン前会長(中央)をはじめとする本社の社員たちに囲まれて
創業者のひ孫であるショーン・ゴーマン=エル・エル・ビーン会長(左)と共に
WWD:そういった揺るぎない根幹の部分があるから、島田さんも長く勤めてこられたのかもしれないですね。本国の「エル・エル・ビーン」イズムを最初に日本に導入したと思いますが、本国と戦わなければならないこともありましたよね?
島田:すごくありましたね。そもそものカルチャーが違いますし、言われたことをするばかりでは成り立たなかったですから。もともと西友と松下電器(現・パナソニック)との合弁で日本に上陸したのですが、2001年に本国資本100%の子会社で事業を引き継いだ時も、利益率が低いからという理由で新宿や池袋の大型店を撤退したりしました。アメリカに住む彼らにとって、日本の主要都市で店を構えることの重要性がなかなか理解できなかったんです。
WWD:でも、そこは諦めずに戦いますよね?
島田:そうですね。でも、最終的には私は負けました(苦笑)。それでもその時は自社で100%のビジネスができる楽しさの方が大きかったですね。それまでは合弁だったので、口は出せるけど実権がなく、コントロールできなかったですから。本国100%になって、お客さまにより向き合えるようになりました。この時、自分で現場をやり、部下と話しながらみたいなかたちだったので、そこが非常に面白かったですね。自分の責任領域も自分で広げていける裁量も持たされていて、やり甲斐を感じました。
WWD:企業の立ち上げ期に携われるのは面白いし、大変だったでしょうね。
島田:えぇ。ただ今度は、アメリカで方針が変われば、そこに従うしかないみたいなことにはなりしました。トップダウンで決まったことをいかに受け入れて、自分のチームにも納得してもらうかというのは大変でしたね、やはり。
WWD:そうした矛盾はどのように自分の中で解消したのですか?
島田:やまない雨はないというじゃないですか。それを信条にポジティブに。納得したというかたちで下の人に伝えていくというようなことは外資系に関わらずどんな会社にもあると思うんですよ。本国の意向を覆せなかったら、その中で精一杯やって何か成果が出せれば自分たちの存在感もアピールできると思うので、中長期的に考えて、もうちょっと上を見ようよと捉えるようにしてきました。
WWD:辞めようとは思いませんでしたか?
島田:もちろん厳しいときもありましたが、いそがしくて辞められる余裕もなかったですね。気付いたら17年も勤めていたという感じです。しかも、仕事が好きだったので楽しかったですね。エル・エル・ビーンという素晴らしい企業や、アウトドアと自然が大好きで、その教育や学校、森林保全に寄付するなど、企業の利益だけでなく、全体的なことを考える本国の人々との出会いは大きな魅力でした。また、そうした「エル・エル・ビーン」イズムを日本支社のメンバーにどう伝えるかというのは結構楽しかったですね。
WWD:今後の予定は?
島田:ずっといそがしく働いてきたので、1回ここでリセットして、さらなる進化を目指したいです。これまでの経験を生かして貢献できるようなことでもいいですし、また何か新しいことでもいいなと思っています。